昭和44年10月03日 朝の御理解
御理解 第50節
「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。」
まぁ色々に、此処ん所を頂いてまいりましたですね、「とかく、信心は地を肥やせ」と、て云う事は、どう云う事だろうかと思うんですが、大体しっかり信心をせよと、しっかり御用をさして貰えと、しっかり御用しておくと、それは氏子の上には、神の用をたせば氏子の用は神が足してやると仰る様な、いわゆるひとりでに物が出来る様な、言わば感じでおかげが受けられると。
そういう信心が肝要じゃと、と云う様に、大体頂いてまいりましたけど、そうではない様ですね。一生懸命お参りをするとか、又は一生懸命御用をするとかと、云う事も矢張り大事でしょう。けれども地を肥やすと云う事に、では無い様に思うんですね。私共が本当にこの願いたい、また願う事は、ひとりでに物が出来る様なものぞとこう、しかもそれはです、ひとりでに物が出来る様なものであろうぞと。
それは氏子が神の用をしたから、神が氏子のはしてやると仰る、それだけプツンと切れた様なものじゃない。地が肥えておれば、人間さいさい、そこから永久に良いものが生まれてくる、勿論、一遍肥やしとけば後は良い、それで良いというのじゃありませんけども、だからとかく信心は地を肥やせと仰る、とかく信心は地を肥やすという、信心が身に付いておかなければならんと云う事になる。
肥やしをしておるとだから良く出けたと、ひとりでに物がでけたけれども又その次には、その肥やしが施されなければならん。ですから其処ん所が矢張り身に付いてしまっとかなければ、段々地は又痩せてしまう肥えておった地でも、段々同じ物を何べんも作っておると地は痩せて来ると。だからきっとその限りなく地を肥やしておくと、限りなくだからそれが身に付いてしまわないかん。
とかく信心は地を肥やせと云う事はそんな事だとこう思う。今朝から私はあの控えに出て参りました。2、30分あまりの時間を心中祈念をさして頂いておる訳ですけれども、私のね信心に響いてくるんですね。それがどういう意味か分からない。けれどもこう云う様な事です。「待ちませず客を待ち受けました」と頂く。待ちませず、客を待ち受けましたとまぁ私控えておる間にまぁ考えましたんですけれどね。
「待ちませず、客を待ち受けました」と、何やらかんやら分からん様なそして今日、教典を頂きますと第50節を頂きます。ですからこの50節と矢張り関わり合いがある事だと、こう思うわせて頂きます。そこで是はどう云う事かと言うと矢張りひとりでに物が出来る様なものぞと云う事ではないかとこう思いました。ひとりでに物が出来る様なもの。先日30日の日でしたか、壱岐の末永先生がひょっこり見えました。
第一日目の御大祭を頂くと、それで行きがけに、ちょっとお礼に立ち寄りましたとこう言うのである。丁度お昼頃でした。丁度その、2、30分前に熊本の山田先生が、ご信者さん方のお初穂をまとめて、御本部参拝のお初穂を持って来ておりました。でそれでまだ私がここへ座っとる11時ちょと、11時30位でしたから、あの末永さんに言うてから、山田先生が見えとるから、お昼の準備をする様にと言うておりましたから、家内がお昼の準備をしとりました。
所がご祈念をして、もう12時だというのに、「帰ります」と山田先生が言う。バスの時間が、熊本行きのバスの時間の都合がありますから、今日はもうご無礼してから帰ります、「折角用意したのに」と、申しましたけれども、帰られました。もう12時ですから、私は勝手下がらして頂いてから、食堂ん所に、食堂に入ったばっかりん所で、末永先生がやって参りましてね、今日の1時半に壱岐の方から船が着きます。
それで私の方信者さん方が全部参りますから、壱岐の埠頭まであの博多の埠頭まで、迎えに行ってやらないけません。もうちょっとの時間をこうやって立ち寄りましたと、こう言うんですね末永先生は。それでもとにかくあの、まぁお昼じゃから、ご飯だけ頂いて息なさい。ところが末永先生その、今から用意して貰いよったんじゃもう12時ですから、1時間半で博多へ着かないかんから。
1時間あれば充分だけど、向こうが間に合いませんからとこう言う、それでもまぁ頂いて行きなさい、ちゃんと徳者は違うまぁあんたがくるから、ちゃんともうお膳部がでけとるよと。「はぁそんなら頂いて行きましょう。」ち言って、山田先生の為に、言わば作ったお膳部を、末永先生が頂いてそして早々に参りました。私はそう云う様な事、ではないかとこう思ったんですね。
なら末永先生が見えるからといって、待ち受けとった訳じゃないのです、待ちませず客を待ち受けましたと。それでいてそのお客さんが来た時にさぁとっさに面くらわなくても済む。それはどう云う様な所からなる程末永先生「やっぱ徳者は違うなぁちゃんとあんたの為に、こうしてお膳部がでけとったばい」というて、まぁ申しました事で御座いますけども、果たして末永勇先生が信心の徳でそれがでけておったであろうか。
小倉の初代桂先生がまぁいうならば、武者修行とでもいうか諸国漫遊とでもいうか、まぁ諸国漫遊でしょうねもう大徳を受けられて、教会がまぁ隆々とした御比礼を頂いておられる時分に、全国あっちこっち回られた事があるそうです。御伝記に載っております。それを今、勿論( ? )もっとる訳じゃないから随分御比礼が輝く、御比礼が立っておる、あちらの先生は徳者だと言われる様な所を。
まぁ回られてまぁいうなら武者修行ですね、自分の信心とどの位違うのか、どの位の徳を受けておるのだろうかと、言ったような事だった。私どこの教会かはちょっと忘れさして頂いたんですけども。桂先生がお出でられますとですね、あぁ小倉の桂先生とゆうてから、その向こうの先生が知っておられた。神様から今日は客が来るぞと仰るから、あのお昼の用意をしとりましたから。
どうぞお昼を召し上がれと言って云われたから、もう一本ポーンと行った途端に、その何か負けた様な感じがしたと云う様な事を書いてあります。それから又帰りがけにその時分は人力車で御座いますからね、帰られるという時間にはなら車を呼んで頂きましょうち言われたげなりゃ「もう表に来とります」ち、言わっしゃたげな。またやられたち本当にこの霊徳の優れた方というのは、その本当に素晴らしいですね。
ある意味でそれからまぁ暇を告げられてから車の人になられたらその先生が、またお玄関の所から車引きに言うておられるんです。「途中用心せんと転ぶぞ」ちゆって仰ったそうです何をいよるかと思うて、まぁ桂先生は思うたとこう言う訳ですね、人力の人になって所が途中でですね、その車引きが転んだそうです。はぁ先生がああぁ言われるから、転ばんようにという祈らず、車引きに注意せずおったと云う事。
もう3べんいうならば、立て続けに打ち込まれた様な気がしたという言われる様な事があった、と云う事が伝記に載っとりましたですね。ですから私は、そういうお徳を受けますとですね、そう云う事も、矢張りなら出来る。今日は誰々が来るぞと、だからちゃんとお膳部の用意をしておけと、ところが是は、待ちませずじゃなくて、待ってる訳ですね、神様からお知らせを頂いたから。
今日は誰が来るじゃろうかと思いよったら、小倉の桂松平先生が来らっしゃったと云う事になるのです。だから是は私は、霊徳だと思うんですね、矢張り。だから霊徳は、私はあんまり好きませんですね、いわゆるその予言的なこと、ここでもその、やっぱあります、また、そういうおお知らせを受ける事も御座います。けれども私は、それはあまり大した事じゃないと実は思うのです。
まるきり昔のその忍術者が、忍術比べする様な感じですね。それで本当に、例えば幸せになると云う事じゃないのです。そう云う事が分かるから、人間が幸せになると云う事じゃないです。幸せというのは、私はここに、今日頂きます、ひとりでに物が出来る様なものぞ、というおかげを受けて、初めて人間は幸せだと思うです。ひとりでに物例えて申しますとです、なら私は決して今日は末永先生が来るから。
ちゃっとそのお膳部を作らせておったと云う事じゃないけれど、ひとりでに物がでけてる様なものでしょうが、それがですね、それがね何時もである時にです、丁度ふが良かったのと言う。そすとそこでは「末永先生、やっぱ徳者は違うな、徳者が見えるけん、ちゃんと神様がお膳部を用意して下さっておった」と、まぁ申しましたけれども、実は末永勇先生の信心じゃない、私が何時も末永先生の事を思うておる。
来たらご飯食べて帰さなければ、まぁおかんと言った様な思いがね、思いがその様に現れておるんだと私は思うです。何故かというと、ここの場合は、なら全然信心のない人、私は30日の日に、日田からお客さんを受けました。まだここに2回しか参って来てない、10時に来ると言うてあった、高芝さんのご親戚、けれども丁度こちらでは、久保山さんが10時にひげを当てに来てくれましたから。
10時に見えておったら、相対する事が出来なかったり、又はひげを剃る間待って貰わなきゃならない。ところが先方の方は、何かの都合がでけて、2.3時間遅そうなった。2時間ばかり遅そうなった。それから丁度12時、私がひげを当たってしもうてから見えて、で、日田から見えました。それから応接間に通す。それでそこで段々、お話をしておったら、はぁやっぱりこの時間になからなきゃいけなかったなぁ。
息子さんが自動車の運転をして、息子さんまで是非連れてお参りしたいと思うておった、その息子さんが一緒にお参りをしておる。そう言う風に、お話しておる所へ、先日からも話しますように、あの梅里先生が見えました。でしばらくお話しさして頂いて、始め家内に私が、お昼の今日のお食事の日田から見えておるから、あぁお茶漬けでもえぇから、あげる様にしてくれんかと申しましたら。
今日はもう何もかも打ち上げてしもうて何もなかですよとこういう。月次祭の前の日ですらもう殆ど、お野菜も何も頂き、言わば尽くしておる様な状態です、何時も。何もなくても良いじゃないかと言ったけども、家内がそういいますから、あそうそんなら、お食事をどうぞと云う事は言うまいとこう私は思うた。そしたら梅里先生が見えましたんです。是はどうでも、やっぱりお食事をあげなきゃならなくなったから。
また食堂へ参りましてからまぁとにかく茶漬けでもいいから、準備をせよと申しましてから家内が準備致しておりました。そして私はそれからまた2、30分して食事の準備が出来ましたというから丁度6名でした。客殿の方に食事の準備をしてありましたから、あちらへ行かせて頂いて、その準備のでけておるのを見て驚きました。成程その大したものはないけども何ともなしに中々あか抜けしたその料理が色々でけている。
まぁいうなら山菜料理である。梅里先生が大変喜ばれた。日田の方達がもう本当に久しぶりでこういう、お料理を頂いたというて喜んで下さった。おビールをあげたら、おビールもつまみも中々洒落たものがでけておった。今日は家内に今日の料理はとても皆さんが喜ばれたぞと、まぁまあ事実そうでしたからまぁ申しましたがです、どうしてこんなものが揃うとったかと私が言うた、あんなものがあったかちそれが早ように東京から送って来ておったもの、それが冷蔵庫の中に入れておった。
開けたら丁度先生それが、そのう6人分の料理だけあった。それも是もが、何もかにもが全然もう無いと思ったが、6人分だけ全部、5つ通り位出てとりましたでしょうか、ちょっとしたものまで、それがそれだけ冷蔵庫の中に入っておったと、そして、例えばそのお客さんに、いわば一番喜ばれる様な物がでけておったと云う事。私も、私は大体が美味しくなかな美味しくない、美味しいなら美味しいと、家内にも言う性分ですから、家内に何回もそれを申しました。
今日の料理はとにかくあか抜けして、美味しくて、しかも、そのお客さん達に、ぴったり揃いなさったと言うて、家内に何回も、神様のおかげですよ、お繰り合わせ頂かなきゃ出来る事じゃないとこう言うて、おりましたけれどもですね。待ちませず、客を待ち受けましたと。10時頃に見えるお客さんだから、勿論お昼なんかはあげる必要ないと思っておったから、食堂に連絡をとってなかったけれども、ならいよいよ、茶漬けでもいいじゃないか、あげるようにせろと言うて。
いよいよあげる事なったら6人分きっちり、しかもその6人のお客さん、5人のお客さん、私を除いてね5人のお客さんがもう本当に珍しい美味しいと言うて、しかも東京からまでも送って来ておるその珍味類を、ご馳走になってと言うて大変喜ばれる。もう本当にその、そう云う様な事がね、ならここの場合は何時もそうだと云う事。そこでならこの50節をもう一遍呼んで頂きます、読みます。とかく信心は地を肥やせ。
常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば肥をせんでも、ひとりでに物ができるようなものぞ。とこれは一所懸命お参りをしとけとか、信心修行をしっかりしとけとか、御用がどんどん出来よりゃ、いよいよん時には、神様がこっちの御用はして下さると、いったようなものじゃないと。とかく信心は地を肥やせということは、どういうことであろうか。地を肥やしておけば、ひとりでに、物が出来る様な物という。
ひとりでに物が出来る様なしかも限りなく、頂けて行く様なひとりでに物が出来る様な、おかげを頂くと云う事はです。今、末永先生の例をとりました、いわゆる日田からの2、3日前のお客さんの時の事を、例に聞いて頂いて、そして今朝から私が頂きます、「待ちませず、客を待ち受けました」というおかげ待ちませず。例えばね突然お客さんが見えたのに、丁度そのお客さんに出すだけの物があった。
いやもう御膳部がひつらえてあった、「待ちませず客を待ち受けました」と、是は一事が万事にそうである。はぁお金が突然お金がね、入って来たと思いよったら集金に見えた。丁度それがその支払いの額に会うておった。いやお金は来ていなかったけれども、いつかこんな事があった、久富、今の久富組です、椛目の御用を、建築のあれをさして頂いた、金額も4万7千何ぼという、随分昔ですからね。
10何年前の話しです。丁度夜の御祈念にあの小坪さんがお参りをしておる。そして兄さんとこのその受けとりを持って来ておる。お金はもうすぐ貰えると思うて持ってきてやっぱり、やっぱその時分ですねここにはお金が置いてあるはずもないし、しかし何万てゆう纏まった金がそう右から左に、向こうとしても「いえ、そりゃもう明日でん明後日でん、またよございますけん、どうぞあの調べとって下さい。」と。
こう言う。それから、ならそうさして頂こう、そして夜の御祈念に掛らせて頂いてから、ここに付いて御理解頂き終って、その御祈念前に、ある人が参って来ておった。ある難しいあのお願いをしておったお礼に出て来た、出て来ておった。で、お初穂をお供えさせて頂いて、こちらに何かこんな部厚い状袋に入ったままのその手紙です。はぁ是は私は、後から手紙読んでくれと云う事だと思って、私はここに置いとった。
だからそのお初穂だけをお供えして、それから御祈念に掛って、御祈念が終わってから、さっきあった手紙を読んどかにゃいくまいと思って読んだ。ところがそれは手紙ではなくてからお金であった。その状袋の中に4万7千円入っとった(笑い)「あっ小坪さん、もう明日ちゆう事はいらんて、ほらこげんしてから来とるけん」ね、と云う事であった。それはどう云う事であったかというとその手紙がある方ん所へ。
もうそれこそ、もうそれこそ、もう引っ掛かってしまっておったという、その売掛金がですね、先方の方から送って来てる訳です、その人の家に。だからその手紙の中にその、今の様に現金為替なんかていうのは無い時分ですから、中にお金を入れて送って来ておる。こりゃどんなに思うても、神様のおかげじゃから、これはこのまんまお供えをせろと云う事だというんで、そのままその人がお供えしてあった。
だからそれをなら開かせて頂いた、それが4万7千円であった。と云う様にですね、是なんかはちょっと、あっお金が入って来た、丁度集金が来たちゆうじゃなくてから、反対ですけども、もう間髪をいれず、4万7千円入りますよと、もう其処ん所に、もう準備がしてある。と云う様な事にもなるのです。是は。ひとりでに物が出来るというのは、そう云う事なんだ、是はだから霊徳じゃない。
はい何時いつは、金は誰が幾らとりに来るから、幾ら幾ら用意しとけと、お知らせを頂いて、用意しとったと言う様なのとは、言わばだためが違う。だからそう言う様な所をですね。私はあの頂いて行きたいと思うです。ひとりでに物ができるというのは、そう言う様なおかげだと私は思うです。いかにもさぁ何時いつは誰が集金に来るから。お金は用意しとけと仰るから用意しとったら。
こうだったというのは、是は何かこういうならば人間離れしたというかね。それこそ忍術使いか仙人かでなからな出来ん様な、成る程それはねそれは私は決して軽く見る訳だけじゃないけれど。それよりも私は「ひとりでに」と云う事が大事だと思うんです。ひとりでに物が出来る様なものであろうぞと仰る。ひとりでに物が出来る様な、おかげを頂かなきゃそこで私自身がです。なら兎角信心は地を肥やせと仰る。
その兎角信心は地を肥やせと仰る、その地を肥やしておる事に努めておったから出来るんだと私は思うです。それで、なら私が地を肥やしたことは、どう云う事だろうかと云う事なんです。兎角信心は地を肥やせ、それは一生懸命お参りをした、一生懸命お参りをして、おかげを頂いたとつういっぱいな信心をして、つういっぱいなおかげを受けておるんですから、それが比礼になっとらんです。
そんなこつじゃ一生懸命御用したばってん、御用しただけは又おかげを受けとるけん、もうそれで差し引きしまえとる。いうならばそう云う事は。だから是はね一生懸命私共が此処ん所をですね、一生懸命お参りをしよう。一生懸命御用をしようどんどんお供えをしとかな、それが地を肥やすかの様に聞いて来たんです。今まで決してそうじゃないて、地を肥やすと云う事は結局地と云う事は私は自分の心だとこう思うです。
自分の心を肥やしておけとしかも豊に、ならどう言う様な事が、その肥えになっておるか、どう言う様なものが、自分の地を肥やす事になっておったか。私は愈々本気で、馬鹿と阿呆になる事だと思いますよ。ね、( ? )堪らん様な事を、黙ってそれを自分の心の根肥やしと思うて、頂きよる内に、地が肥えて来た。( ? )に、信心がでけておりませんから、大きな問題なんかを、ぼっと持って来られたら。
それこそ血の涙もでる様にも、思う事もありましたけれど、それを黙って受けて来た。いわゆる成り行きを大切にして来たと云う事。自分の心にですね、嫌な、例えば問題がです、それをそのまま根肥やしにして来た。だから地が肥えた、心が肥えただから、私はここではです、肥をせんでもひとりでに物が出来ておる様なおかげが、合楽のお広前に現れておるのじゃなかろうかと、私は思います。
しかもです、なら私のこの流儀というものが身に付いてしまった、もう馬鹿と阿呆で行く以外にはないんだ、黙って受けて行く以外にはないのだ、もうそれが、もうそれが合楽の信心だと身に付いてしもうた。だから限りなく根肥やし、地を肥やす所のあり方というものが、身に付いてしまっとるから、是はもう限りなく、ひとりでに物が出来る様なおかげに成って来ると云う事とになります。
今朝から私が頂きます「待ちませず、客を待ち受けました」と、お客さんが見えても慌てる事はいらん程しのです、おかげを頂いてはぁ早よから連絡、電話一本入れておって頂きゃ良かったのに何て言わんで済むおかげ、集金に来るなら来るごと前から言うといて貰えばよかとにと言わんで済むおかげ、ひとりでに物が出来る様にひとりでに神様の働きというものが、ここにもでけておるとそういうおかげを私は頂きたい。
魔か不可思議と云う事じゃない、もう当たり前の事の様にして、良い土地に良い種が蒔かれた時に、それがひとりでに、こうやって芽が出たり、葉が出たり、花が咲いたりする様に、おかげを受けられます。そういうおかげの頂けれる、私は道をです、合楽では取分け、其処ん所に焦点を置いて、信心の稽古を、お互いがしておるので御座いますから、これだけは受けられん。
こんなもんな心の中には入れられんというて、良い肥やしが折角来たのにその肥やしを、向こうの方に追いやる様な心掛けでは、何時まで経っても私は地を肥やすと云う事にならない。信心はとかく地を肥やせとはねお参りすると云う事でもなからなきゃ、修行すると云う事でもなからなければ、いくら修行しとったちゃ自分の心に受けきらない、例えば成り行きを大切にしきらんならば、地は何時まで経っても肥えんと云う事。
私は、そこんところを間違えておった。一生懸命お参りをしよる事は、教会にどんどん打ち込みよる事、打ち込んだ信心しよる事はもう自分の、そのとかくに信心は地を肥やせと仰る、地を肥やしよる様に思いよった。どんどんお供えをさして貰いさえすりゃ、もう地は肥えよるように思いよった。いっちょん肥えなど肥えよらん。地を肥やすというのは、もう自分自身の心を肥やす事、その自分自身の心をです。
例えば苦い事であろうが、甘い事であろうがです、それこそ臭い事であろうがです、それを黙って受けていって、初めて心が豊に肥えて来るんです。肥えて来るから、ひとりでに物を、ひとりでに肥えをせいでも物が出来る様なものであろうぞよ、というおかげに成って来る訳ですね。私今朝から頂きます、この「待ちませず客を待ち受けました」と云う事が、今日「この50節」を頂いて。
はぁ此処ん所だったなぁて言う風に、まぁ分からして頂いたので御座いますけれど、まぁどこかにも意味があるかも解りません、神様の下さる事は神縁ですし、また中々その深いのですから、だから是はまた考えなきゃなりませんけども、先ず今日は「待ちませず客を待ち受けました」と招かざる客と言う様な事を申しますね、招かざる客であってもです、そこにはうろたえんで済む様なおかげ。
例えて、この頃の教祖生誕祭なんかがそうだったですね、全然この合楽の間違いだったもんですから、その指出の方のぶらくは、お招きしてなかったんです。所がある手違いで、そのあちらにも招くようにしてありましたもんですから、皆さんが15名ばらばらと見えましたんです。さぁ15の弁当が足りないという筈であったけれども、足りない事なしにおかげを受けたでしょうが。そしてから私が思う事は、こりゃどうでん、来年からは本当に合楽全体をお招きする様にさして頂かなきゃならんなぁと私は。
まぁその反響というですか、指出の方から初めてお参りされた方やら、初めてその呼ばれた方達でしたから、あの月次祭かなんかに丁度3人お礼参拝して見えられた方がありましたね、もう本当に初めてお参りをして、本当にあんなあれって言って、もう大変喜ばれました。実をいうたら、招かざぬ客でしたけれども、私としては。それが見えておる、それが見えておっても、そこには一つも不自由ではない、困った事ではない。
それはしもうたなと言った様な事のないおかげを受けておるでしょうが、合楽の場合は是は何時の場合も、目の前でこうやって見せて頂きますから、あれはどう言う所から、あぁ言うおかげが合楽ではたつであろうかと。それを今日私が分らせて頂いた事は、とかく信心は地を肥やせという信心がでけておるからだと私は思うです。それは一生懸命信心に打ち込むと云う事とは違って、自分自身の心の上に、日頃しっかり肥やしを頂いとかなければならんと云う事に、なりますですね。
どうぞ。